何から書いていいのか、、
1年近くたってしまった。。。
父に
2007年の12月のはじめ
「来年はないということ、わかりますか?」と
癌の告知。
それでも
治療して、
「シスプラチンはできる限り8クールまで続けましょう」
ということだったが
6クール目で副作用がでて終わりになった。
それから
TS−1も10月だったか、、におわり。
だんだん歩くのも域が切れるようになって
11月の診察は
行くときはよかったのだけれど
帰りは会計やらを待っている間に
父は横になってしまって
歩くどころではなくなってしまった。
病院の車椅子を借りて
車まで行った。
それから・・・
11月の末、
トイレに行ってかえってくると
苦しくなることがあった。
何どか
痛み止めの薬を服用したが
だんだん効き目がみられなくなった。
12月1日は診察の日だった。
急にトイレも大変になっていたので
ポータブルのトイレ、
介護ベッド
車いすを用意した。
こういうとき
役所の介護の保険は
手続きが大変で・・・
ほかの人たちよりは早くできそうだといってくれたが
とてもとても、間に合わないことを学習した。
こういう手続きよりも
病気の進行の方が
ずっとずっと早いのだ。
そのころは
親しくしている人たちが
毎晩のように見舞ってくださり、
前夜も楽しそうに笑って話していた。
そう、
12月1日の診察の日、
先生の顔が曇った。
血液の検査の結果・・・
このころは、検査も血液の検査だけになっていた。
・・・貧血がひどいので輸血をしていくようにといわれた。
長い時間がかかって
外も真っ暗になり
母から心配して何度も電話があって・・
とにかく時間がかかった。
先生は輸血を終えた父に
診察のときと同じことを言った。
「入院できますよ」って。
父は笑って同じ答え
「はい、まだ大丈夫だと思いますから、かえります」
わたしも父には家にいて欲しかったので
先生にもそう伝えた。
先生は
何かあったときは
救急車で来るように、、と言ってくれた。
その夜
先生が言ったとおり
救急車で病院に行った。
次の日は
ホスピスに移り
わたしたちも安心して
病院の食堂にお昼を食べに行った。
母からの電話。
父が苦しくなると必ずわたしに電話をする。
わたしだけ先に病室にいくと
わたしが入るなり
父は息きを引き取った。
姉妹で悔やんだ。
言い残すことがあったかもしれないのに・・と、
しかし
父は普段からわたしたちにいろいろ教えてくれていたし、
いろんなことを照れずに話す人だった。
苦しいときに
わたしが行くと
大丈夫なのに、、といつも母をしかっていた。
苦しいところは見せたくなかったのだと思う。
それに、
癌の末期のさいごに
苦しいときに「苦しい」以外の言葉はでないんじゃないかな。
最後までよくしてくれた
県立がんセンターの先生や看護士のみなさんには本当に感謝申し上げたい。
昨日は
父が亡くなって4ヶ月目、
お団子を作ってお墓参り。
実は36日後に
元気だった祖母も
スキルス胃がんで亡くなった。
悲しみはまだまだ言えることはなく
涙がこぼれない日はない。
祖母のことは
病院や医師に不満がある。
祖母はかかりつけの近くの医師に紹介されて
検査のためとおもってその病院にいった。
お腹の食べ物が流れにくくて
キレイにならないと検査ができないから、、と
入院して検査をしましょうということだった。
入院から1ヶ月、
検査のためといって点滴のみで絶食、
手術の前の日に癌だと知らされ
そのときは抗がん剤はしない、といったのに
手術後抗がん剤TS−1を服用。
その後、歩けなくなり
高熱が1週間以上続き
そのあとは
狭心症の発作。
心臓なんか悪くなかったのに。
とにかく
病気のことも
薬のことも
しらされないまま、、、
転院を希望して
たまたま面会時間外に書類をとりに行った時
祖母はぐったりしていた。
ナースに言うと
医師もいたのに
医師が診察もしないまま
ナースが注射をする。
先生は?
と此方が言ってから来た。
わたしたちは
祖母を返してほしい。
どんな状態でもいいから
かえしてほしい。
まだ生きていたはずでしょ。
ご飯も出さないで
此方がいうと
「じゃあ、だしましょ」という感じですから。
医師不足といっても
あまりにも命を軽く考えているきがする。